森林土壌生物多様性が河川を経由して沿岸・海洋生態系に与える影響:有機物分解と栄養塩循環の視点から
はじめに
陸域生態系、特に森林が沿岸域や海洋生態系に与える影響については、古くから水文学的・物質循環的な視点から研究が進められてきました。森林からの淡水供給、土砂や栄養塩、溶存有機物(DOM)などの流出が、沿岸域の物理化学的環境や生物生産性に大きな影響を与えることは広く認識されています。しかしながら、これらの物質の「質」や、陸域での物質変換に関わる生物の役割、特に森林土壌に生息する多様な生物が、その後の河川・沿岸生態系にどのような影響を及ぼすかという点については、未だ十分な理解が得られていません。
本稿では、「森と海の豊かさ」というサイトコンセプトに基づき、森林土壌に生息する菌類や昆虫といった多様な生物群が、有機物分解や栄養塩循環といった土壌プロセスを通じて河川水質に影響を与え、それが最終的に沿岸・海洋生態系の機能や生物多様性にどのように波及するのかについて、陸海連結の視点から解説します。
森林土壌生物多様性の機能と河川への影響
森林土壌は、植物の遺体(落葉、落枝、根など)や動物の排泄物といった有機物が分解され、無機化されるプロセスが活発に行われる場です。この分解プロセスは、バクテリア、菌類、放線菌といった微生物、およびミミズ、ダニ、トビムシ、昆虫幼虫、ヤスデなどの土壌動物といった、非常に多様な生物群によって担われています。これらの土壌生物は、有機物を物理的に破砕したり、酵素を用いて化学的に分解したりすることで、複雑な有機物をより単純な有機化合物や無機栄養塩に変換します。
土壌生物の多様性や群集構造は、分解速度や有機物の化学組成、栄養塩の形態(アンモニウム態窒素、硝酸態窒素、溶存態リンなど)といった土壌プロセスの特性に大きな影響を与えることが知られています。例えば、リグニンやセルロースといった難分解性の有機物の分解には特定の菌類群が重要な役割を果たします。また、土壌動物は有機物の破砕や混合、微生物の活動促進などを通じて分解プロセスを加速させます。
これらの土壌プロセスを経て生成された溶存態および粒子態の有機物や無機栄養塩は、雨水や地下水によって溶脱され、河川へと輸送されます。土壌生物多様性が高い森林では、分解が効率的に進み、栄養塩の保持や有機物の安定化が進む一方で、特定の分解産物や代謝物が溶出して河川に供給される可能性があります。逆に、土壌生物多様性が低い、あるいは特定の機能群が欠損している土壌からは、未分解または部分分解された有機物や、特定の形態の栄養塩が過剰あるいは不足した状態で河川に流出することも考えられます。このように、森林土壌生物の活動は、河川に供給される物質の「量」だけでなく「質」をも規定する重要な要因となります。
河川から沿岸域への物質輸送と沿岸生態系への影響
河川によって運ばれた森林起源の有機物や栄養塩は、沿岸域に流入し、沿岸生態系の構造や機能に影響を与えます。河川流入水は、沿岸域の塩分濃度、濁度、栄養塩濃度などに変化をもたらし、植物プランクトンや海藻の生産性、あるいは底生生物の群集構造に影響を与えることが広く研究されています。
ここで注目すべきは、河川水に含まれる森林起源の有機物(DOMやPOM)の「質」が、沿岸域の生態系に与える影響の差異です。森林土壌生物によって分解が進んだ有機物(例:低分子量の有機酸)は、沿岸域の微生物によって比較的容易に利用される可能性があります。一方、分解が進んでいない難分解性有機物(例:高分子量のフミン物質)は、微生物による利用が遅い一方で、光化学分解を経て反応性の高い物質に変換されたり、凝集して粒子化したりすることで、沿岸域の炭素循環や物質輸送に異なる影響を与えます。
例えば、森林土壌からの特定のリグニン分解産物やポリフェノール類が河川を通じて沿岸域に流入した場合、これらは沿岸微生物群集の組成や活性に影響を与えたり、特定の生物(例:二枚貝)の生理機能に影響を及ぼしたりする可能性が指摘されています。また、土壌動物の活動によって生成される糞粒や破砕片といった粒子状有機物は、河川を通じて沿岸域の堆積環境に運ばれ、底生生物の餌資源となったり、底質環境を変化させたりすることが考えられます。
このように、森林土壌生物の多様性が土壌での分解プロセスや物質変換の様式に影響を与え、その結果として河川を通じて沿岸域に供給される有機物や栄養塩の「質」が変化することで、沿岸生態系の生物多様性、物質循環、さらには水産資源の生産性にも間接的な影響を与えることが推測されます。
研究の現状と今後の展望
森林土壌生物多様性と陸海連結生態系との関連性に関する研究は、比較的新しい分野であり、そのメカニズムの多くはまだ十分に解明されていません。現在の研究は、主に以下の方向で進められています。
- 土壌生物群集構造の解析: 次世代シーケンシング技術の進展により、森林土壌における菌類や細菌、土壌動物などの多様性や群集構造を詳細に解析することが可能になっています。
- 有機物・栄養塩のトレーシング: 同位体分析や分子レベルでの化学分析(例:FT-ICR-MSによるDOM組成分析)を用いて、森林起源の有機物や栄養塩が河川を経て沿岸域にどのように輸送され、利用されるかを追跡する研究が行われています。
- 実験的アプローチ: 森林土壌からの溶出液を用いた河川水や海水での培養実験、あるいは森林土壌生物群集を操作した土壌カラム実験などにより、土壌プロセスがその後の水域生態系に与える影響を検証する研究も行われています。
今後の研究では、単一の物質や生物群に注目するだけでなく、森林土壌生物群集全体の機能的多様性と、河川・沿岸域における物質循環、生物多様性、生態系機能との間の複雑な因果関係を、長期的なモニタリングやモデル解析なども活用しながら統合的に理解することが求められます。
結論
森林土壌に生息する多様な生物は、陸域における有機物分解や栄養塩循環といった重要なプロセスを担っています。これらのプロセスは、河川を通じて沿岸域に供給される有機物や栄養塩の量と質を決定づける要因となり、ひいては沿岸・海洋生態系の構造や機能、生物多様性に間接的な影響を与えていると考えられます。
陸海連結生態系における森林土壌生物の役割を理解することは、持続可能な森林管理、河川管理、沿岸域管理を統合的に進める上で不可欠です。例えば、森林施業や土壌管理が土壌生物多様性に与える影響を評価し、それが下流域や沿岸域の生態系サービス(水質浄化、水産資源生産など)にどのような影響を及ぼすかを予測することは、将来的な管理計画の立案に重要な示唆を与える可能性があります。
今後、異分野間の連携を強化し、陸域から水域に至る連続的なプロセスを対象とした統合的な研究を進めることで、「森と海の豊かさ」を支える生態系機能の理解がさらに深まることが期待されます。